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古園石仏 大日如来仏頭復位前 |
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謎と伝説につつまれて、今なお風雨に耐え、当時の壮観さを失うことなく現存している臼杵石仏。それは昔から深田区民の信仰の対象仏として、守られて来ている。昔から、年一回旧暦の七月二十四日、地蔵盆(現在は八月の最終土曜日)に石仏供養火祭りを行ってきた事実や古老たちの言い伝えからもこのことがよく分かる。
明治四十三年、京都帝国大学教授、理学博士小川琢治氏(ノーベル賞受賞の湯川秀樹博士の父君)は中国の文化視察を行い。その土産話の中で「中国の磨崖仏はすばらしく、日本では絶対に拝むことのできるものではない」等々を京大の学生に講義した。その学生の中に臼杵市出身で彫刻家を志望、東京の美術学校に学んでいる日名子実三氏の友人がいた。彼は日名子氏へ、彫刻を志すならば中国の磨崖仏を一見せよ、と告げた。すると、日名子氏は磨崖仏は故郷臼杵の深田に行けばたくさんあると答えた。この事が小川博士の耳に入った。博士は半信半疑だったが、日名子氏は夏休みで帰省した時、博士から借りたカメラで深田石仏を撮り、博士に見せた。博士はびっくり仰天し、実物を見るため、臼杵に足を運んだのは大正二年八月のことであった。
しかし当時、石仏群は信仰の対象仏とはいえ、まったくの田舎で、しかも、昼なお暗く立ち入る人も少なかった藪だたみの中にあり、博士はその全部を見れる状態ではなかった。
その頃、私の父(宇佐美辰治は―昭和二十三年没)は信仰心篤く、石仏中央の山頂の山王山神社や、石仏群へ毎日おまいりをしていた。その途中、偶然に鳥居のところで博士に出会い周辺の道案内を頼まれた。そこで一度家にカマ、ヨキなどをとりに帰り、藪を切り開きながら博士を案内した。博士は「すばらしい」を連発、感激しつつ父に向かって、「あなたは今何をしていますか」と尋ねた。「私は、近くで散髪屋をしながら石仏周辺のおもりをさせていただき、朝晩参拝し、暮らしています。」と父は答えた。すると博士は「この石仏は、必ず世に中に出ます。散髪屋さんは年をとり、目がうすくなるとお仕事が大変です。是非、石仏を今まで通りおまもりしながら、茶店でもしたらどうですか。」と話した。
翌大正三年、博士は二度にわたり、県・市を通じて大分県地方の石仏の本格的な調査研究を行い、(小川博士と面識のある父がこの時も案内させていただいた)これを、学会に報告、以降、臼杵石仏が脚光を浴びることになったのである。まさに石仏の夜明けである。これを契機に専門家の諸先生方が、美術的な立場や、あるいは考古学的な立場でいろいろな角度から、調査研究をつづけ、今に至っている。
父辰治は、小川博士のお言葉もあり、更に、のちの臼杵町長甲斐文七氏や小田長平氏(父とともに日本山妙法寺山主故・藤井日達大上人を師と仰ぐ信者)からも小川博士と同様に、散髪屋を廃業して、石仏の案内をしながら茶店を開くようにすすめられ、一大決心のすえ、現在地(石仏観光センター所在地)に、子やがけの住宅を建てた。父を師と仰ぐ信者二百人余りと共に、信仰の道を歩むかたわら茶店を開き、時おり訪れる観光客や諸先生方との語らいを通じ、独自の信仰の立場から石仏案内の仕事をはじめた。
また私(昇)も昭和十八年、父と共に石仏案内所をはじめ、この道に入ったのである。
それから早くも五十年余り、父の志を継ぎ信仰を通じて石仏の研究に没頭し、石仏の案内役の二代目として現在に至っている。この間、多くの先生方の語らい旅館も何もないこの田舎で、ある時は自宅を先生方の宿に提供し夜なべに学術的な知識を学んだ。また伝説やこの地方の古老たちの言い伝えを聞いて知識をふやした。
一方、着々と進む石仏の保存工事にたずさわりながら、宗教的見地から石仏をとらえ、観光客を案内してきた。これまでに臼杵石仏とはもうかれこれ、十万回以上も御対面し、周囲のごく小さなものにいたるまでが脳裏に焼きついており、御仏たちの語らいが、聞こえてくるような毎日である。親子二台にわたり、仏法的立場から石仏に関わってきた一端を書いたわけだが、学者でも専門家でもないので学問的な論文にはなっていない。石仏群の中で生まれ育った一人の、名もない人間が性懲りもなく石仏と御対面し、教えられ、更に学者諸氏に学び、文献を調べ、自分なりに「仏法とは?」また「静かに眠っている石仏は、何を語ろうとしているのか?」を書き記すものである。従来の学説とは異なる見方、考え方をしている部分が、多々あるが、お許しを願う次第である。大方の御批判を頂ければ幸いである。 |
―合掌― |
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著者 故・宇佐美昇は父の後を継ぎ半世紀以上、石仏の案内人を勤め 深く臼杵石仏と関っていくうちに物言わぬ石の仏たちが建立から永いときを経てもなお私たちに語りかけているそのかすかな呟きを感じ・考え・書きとめてきたものです。この本は昭和61年に書かれたものです。この本を書いた当時とは現在時代背景など大きく変化しておりますが。著者の意向を尊重して、ほぼ手を加えず原文のまま公開しております。 |
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