|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
写真 地獄十王 |
|
|
中尊が地蔵菩薩で左右に5体ずつ合計10体の像が整然と並べられている。これをまとめて地獄の十王という。 御地蔵様といえば、普通立つか、座るかして錫杖を持っているが、ここでは左手に宝珠を持ち、右手を胸前に立て足を組み、左足を立てた半跏像となっている。 十王は、人間の死後の裁きをつかさどる裁判官で、道服の服装をし、両手で笏をもっている。十王から考えると、普通中心は閻魔大王だが、ここでは地蔵さんと珍しい形になっている。 われわれは、一度お迎えを受けなければならないのですから、地蔵・十王像を作り、死後の安隠を祈念したものである。 現世人は死者が極楽、地獄、どちらへ迎えられて行ったか、帰って来た人がいないので分からない。よく極楽浄土へ迎えられた、と喜んでいるが、残念ながらわれわれは直接には極楽浄土へは行けず、大なり小なり一度は地獄へ行かなければならない。 そこで娑婆の人間は先人に対し仏事という行事を行わなければならないことになっている。この仏事は霊とお話し、霊を慰めているのではなく、その日その日が十王である裁判官の前で娑婆でおかした罪を裁かれる裁判日である。だから娑婆の方から妻子眷属達が集まりお寺さんまでも雇って先人もわれわれも罪を軽くして、極楽浄土の世界へ送ってください、と嘆願書を出す日なのだ。中尊の地蔵が、弁護士役で命を助けてくださる延命地蔵ということになる。 それで仏事はその命日よりも早くすることはよいが遅れてしても裁判日に間に合わないのでだめだ、という意味が理解できるだろう。 またお寺さんの行事が、一日前または一年前から数えている仏事の年忌は大切なものである。私たちは、このお地蔵さんによくお願いをしなければならない。このお地蔵さんが首を縦に振るか横に振るかで地獄か極楽かを決める実権を持っているわけだ。 昔、地区民は、この大事なお地蔵さんへお願いするために松毬の首飾りを捧げたので松毬地蔵とも呼んでいる。
ここにも、昔は屋根があったと思われ、四角と丸の柱塚が、上部の岩壁には左右に水をはかす、とい(樋)の後がよく残っている。
|
堂ヶ迫からホキ石仏群へ下る途中、左手の岩壁に線彫の五輪塔が十基、平面的に刻まれている。これは今の卒塔婆の前身です。昔の供養塔は、石で作っていたが場所やお金がかかるので今は生活の知恵から、木の板になったものと思われる。 さらに下のほうの岩壁にも仏像が彫刻されていた跡が見える。当時は百体以上もあったと伝えられている。 |
|
|
|
著者 故・宇佐美昇は父の後を継ぎ半世紀以上、石仏の案内人を勤め 深く臼杵石仏と関っていくうちに物言わぬ石の仏たちが建立から永いときを経てもなお私たちに語りかけているそのかすかな呟きを感じ・考え・書きとめてきたものです。この本は昭和61年に書かれたものです。この本を書いた当時とは現在時代背景など大きく変化しておりますが。著者の意向を尊重して、ほぼ手を加えず原文のまま公開しております。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
copyright© sekibutu kanko center all right reserved. |
|