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写真:大日如来(古園石仏群) |
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満月寺からたんぼ道を通り、左手上の方に化粧の井戸、炭焼窯を見ながら日吉神社の参道の横、ゆるやかな石段を登ると、石仏群中心仏とよばれる古園磨崖仏(十三仏)がある。 この十三仏の手前の右手岩壁の高い所に、大きな仁王像が浮彫されている。かなり損傷をうけているが、金剛杵を持った左手を高く上げ、魔神も寄せ付けぬ迫力を誇示している。仁王といえば二体あるはず。昔は二体が対い合っていたが、一体が落下し、首・胸・腹・胴などの破片が地面にころがっている。 これから見る石仏群と比べると浮彫の度合いが浅い。また仁王像は寺の門の左右にあり、門番だからここにもなんらかの山門があったと思われる。 ここ臼杵の石仏群はすべて阿蘇山の噴火によってできた凝灰岩に彫刻されたもので、三段階になっている。上層部は凝灰岩でやわらかいが、石仏の顔の部分は溶結凝灰岩で固たく、下層部はまたやわらかく地下水にも溶けやすい。この様なところに刻まれたために、ここ古園石仏は特に無残な状態である。また臼杵の石仏には全部色彩が施されている。頭、顔、まゆ、口紅や胴体にも一千有余年前の色が今もよく残っている。 古園石仏の中心、本尊が大日如来である。 この大日如来、長い間頭部だけ下に安置され、臼杵石仏の“顔”として慣れ親しまれていた。 一連の保存修理工事の一環として、復元か否か、賛否大論争の末、平成5年8月25日、仏頭は復位された。 月形の長い眉、ややつり上がった眼の抑揚のある線、伏し眼の表情、引き締まった口などきわめて端正に、またゆたかな両ほほ、ややとがった二重あご、切れ長の伏し目などには神秘的な気分がただよっている。臼杵石仏中どころか、日本一の折紙つきである。色彩も昔そのままにきれいに残っている。 この大日如来を中心に左右6体づつ、合計13体並んでおり、13仏といわれている。向かって右端から、多聞天、隆三世明王 観世音菩薩、普賢菩薩、薬師如来、釈迦如来、中尊が大日如来、弥勒菩薩、阿弥陀如来、文殊菩薩、勢至菩薩、不動明王、増長天と曼陀羅式に彫られている。ここが臼杵石仏の中心仏である。 天は父、地は母、この中に育まれてわれわれ生物は生きることができる。この意味を悟って実行したのがお釈迦様である。「私がやってみて良かったらあなた方も精進しなさいよ」とお釈迦様はお手本を示しているのである。われわれは先祖・親があり、五穀があって太陽があるから生きられる。これらに感謝しなさいと言ったのである。 しかしこれらの教えを知るためには、何か形や目標物がなければ人々は信用しない。たとえば、人間は空気がなければ生きていけない。空気に向かって感謝し、手を合わせてお参りしなさい。といってもどっちを向いてお参りしていいか分からない。だからこれを風神様という“形”であらわしたのである。 同じように仏法という理論を説きながらこのような目標物、即ち仏像を作ったのである。ここへ自分たちの願などを頼んで、お参りする。ただし、一方通行の“頼み”だけではいけない。。「蒔かぬ種ははえない」「もらうもの、買うより高し」などの諺があるように、先生方が蒔いてくれれば受け取り、育て上げ、お返しもお礼も言わねばいけない。そうすると親近感、融和が保たれる。逆にお礼もお返しもしなかったら常識がいといわれ自然に人は遠ざかり、一人ぼっちになるであろう。人という字は一人では立てない。ふたつが支え合っていることを現したものだ。仏は人(にんべん)の横に“ム”と書いている。人にものをあげる時はただであげる。欲を離れて“ム”にならなければならない。もちろん欲が全くなしというのではなく、仏は生物すべて草木に至るまで幸せにしようという絶大なる欲をもっていた。ただ我欲だけではいけないといっているのである。
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著者 故・宇佐美昇は父の後を継ぎ半世紀以上、石仏の案内人を勤め 深く臼杵石仏と関っていくうちに物言わぬ石の仏たちが建立から永いときを経てもなお私たちに語りかけているそのかすかな呟きを感じ・考え・書きとめてきたものです。この本は昭和61年に書かれたものです。この本を書いた当時とは現在時代背景など大きく変化しておりますが。著者の意向を尊重して、ほぼ手を加えず原文のまま公開しております。 |
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