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紫雲山満月寺前にある長者夫妻像 |
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九州東岸を至る日豊線臼杵駅から約6キロ(バスで20分)、臼杵川添い逆のぼると、ひろびろとした深田の里に着く。
緑の山と凝灰岩に囲まれた明るい盆地だ。この凝灰岩を利用して刻まれた六十余体(現存)の石仏が日本を代表する臼杵石仏群である。 普通、石仏と呼ばれるものには二種類ある。一つは孤立して持ち運びのできるもので、これを単独石仏と いう。もう一つは天然の岩壁を利用して、岩肌に直接石仏を彫りこみ、持ち運びのできないもので、これを磨崖仏と呼んでいる。磨崖仏には、彫刻・半肉彫・厚肉彫・丸彫近い彫形などの区別がある。臼杵石仏群はいずれも丸彫に近い。 豊後には臼杵石仏のほかにも磨崖仏が多いので、特に豊後磨崖石仏という呼び名がある。 臼杵石仏の由来については、満月寺縁起・豊後風土記・長者伝説など、いろいろな記録がある。真名野長者伝説によると_____真名野長者(炭焼古=小=五郎)は百済(くだら)から日本に黄金鉱石を求めて渡来した人の子であるといわれる。幼名は唐字または藤字らしいが、はっきり分からない。 父母と死別したあと、炭焼又五郎という人に養われた。その養父とも死別した機会に、日本名・古五郎(通説では小五郎)を名乗り、深田の里で炭焼を営む傍ら、黄金鉱石を探し求めていた。 天然の耐火煉瓦を利用した堀抜きの窯を作り、鉱石を溶解、中国や朝鮮まで送り出して大いに金銭を貯えたという。現在も深田にはその窯の跡が残っている。 そのころ、奈良の都に、久我大臣という人物がいた。娘の玉津姫は都でも評判の美人だったが、年頃になるとどういうわけか、体中に黒いアザができ、醜い容姿になってしまった。嘆き悲しんだ玉津姫は三輪明神祈願したところ、二十一日目の満願の夜、夢枕に三輪明神が現われ「汝の夫となるべき者は豊後国三重郷に住む炭焼古五郎という若者である。夫婦になれば幸せ間違いなし」というお告げがあった。姫はこの旨を父母に伝えその許可をえて豊後に下る。 包ヶ浦(現在の臼杵市深田石仏の入り口鳥居)付近に着いたもののそれから先、どっちへいっていいか分からない。困っていると再び三輪明神が現れ、その先導で、やっと古五郎とめぐり会う。古五郎の風体を見ると着物はぼろぼろ、髪は乱れ、顔も手足も垢まみれ、これが神のお告げの自分の夫かと怪しむ。しかし姫は神のお告げを信じ、古五郎と住むことになった。 姫は二人の食料を買うため奈良から持参した路銀の黄金を出し、古五郎に与えた。 古五郎はその黄金を持って出かけたが、日暮れ方、手ぶらで帰ってくる。驚いた姫が理由を尋ねると古五郎はこういった。 「池のそばを通りかかると鴨が浮いていた。都の姫には鴨が好物だろうと、石を投げようと思ったが、石が見当たらない。仕方ないので黄金を石のかわりに投げてしまった」 姫は悲しんで古五郎に言った。 「あれは宝というもので、あれさえあれば欲しい物は何でも手に入る大切なものだ」 ところがそれを聞いた古五郎は笑い出し、 「あんなものが宝ならワシの炭焼小屋の周囲にはいくらでもあるぞ」 と答えた。怪しんだ姫が古五郎に案内されて炭焼小屋に行ってみるとなるほど黄金の山である。
姫はまもなく付近の井戸で顔を洗うと忽ちアザは消え、昔の美しい顔に戻った。この井戸は「化粧の井戸」として今も保存されている。 夫婦の仲は睦じく、やがて女子誕生、般若姫と名づけて育てるうちに、姫は母に似て美しい少女となり、その噂は遠く都まで聞こえるほどであった。 この噂を聞いた欽明天皇の第四皇子橘豊日(たちばなのとよひ)の皇子はなんとか般若姫と近づきになりたいと願い、自分の身分を宇佐八幡に預け、名も山路とかえ、庭掃除、草刈の下男として古五郎宅に住み込んだ。 そのうちに般若姫が正体不明の熱病にかかり生死の境をさ迷う。古五郎夫妻が帝釈天に祈願すると「宇佐八幡に流鏑馬を(やぶさめ)を奉納すれば治る」というお告げを受ける。 ところが、当時流鏑馬は公卿の風習で、公卿以外にできるものはいない。姫の病気を治したい一心の古五郎夫妻は「もし流鏑馬を宇佐神宮に奉納してくれる者がいれば望みのものはなんでも与える」と広く呼びかけた。 この呼びかけに応じたのが山路と名を変えた橘豊日皇子である。 「もしうまく的を射当てた場合は是非姫を妻として頂きたい」と申し出た。 身支度した皇子は見事な手綱さばきで、的を射当て、そこで初めて身分を明かしたうえ結婚を申し出た。 皇子は正式に姫を妻として迎えるために、ひとまず都に帰り、手続きのうえ改めて来ることになった。その時、姫はすでに身ごもっていた。 皇子は「もし迎えに来る日までに女の子が生まれた場合は古五郎のあとを継がせよ。もし男の子ならば共に連れて上がれ」と言い残して都に帰った。 般若姫はやがて女の子を産む。この娘を玉世絵姫と名付け、のちに伊利大臣の三男・鎌勝(かねまさ)を養子に迎える。鎌勝は草刈左衛門尉氏次と名乗り、二代目古五郎となる。以後古五郎は七十八代まで続いたという。 一方橘豊日皇子と別れた般若姫は皇子のあとを追い、臼杵の港から都に向けて船出したが、周防沖合い、大畠の瀬戸で大渦巻きに巻かれ、船もろとも海に呑まれてしまう。 この悲報が深田の里に届き、古五郎夫妻は深く嘆いて、日に日に体も衰えていった。夫婦の嘆きの激しいのを目撃した中国人(貿易商か)は深く同情し、故郷中国の天台山に夫婦の救済を祈った。その結果、古五郎夫婦の嘆きを救うため天台山では蓮城法師を深田へ派遣することになった。
深田に着いた蓮城法師からお釈迦様の祇園精舎の話を聞いた古五郎夫妻は仏教に深い信仰を寄せるようになる。そして、悲しい最後を遂げたわが子般若姫の供養と、わが身の罪滅ぼしのため、深田の里に祇園精舎と寸分違わぬ仏法の里を作ろうという大願を立てる。
夫妻の希望を聞いた蓮城法師は、その志を実現するため中国から建築僧を呼び寄せ、まず五ヶ院六坊を建立、これを総称して紫雲山満月寺と呼んだ。古五郎夫妻はさらに仏教の教えを、広く永く後世につたえるため、万古不滅のはと家を残すことを決意した。永久に残る仏は磨崖仏以外にはない。蓮城法師はさらに中国から彫刻僧を呼び寄せ、百余体の磨崖仏を刻ませたという。この土地は古く真名原(まなのはら)と呼ばれていたので、人々はいつか古五郎のことを「真名の長者」と呼ぶようになった。これが「真名の長者」伝説であり、現存する臼杵石仏群が遠い昔の物語を今に伝えている。 |
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著者 故・宇佐美昇は父の後を継ぎ半世紀以上、石仏の案内人を勤め 深く臼杵石仏と関っていくうちに物言わぬ石の仏たちが建立から永いときを経てもなお私たちに語りかけているそのかすかな呟きを感じ・考え・書きとめてきたものです。この本は昭和61年に書かれたものです。この本を書いた当時とは現在時代背景など大きく変化しておりますが。著者の意向を尊重して、ほぼ手を加えず原文のまま公開しております。 |
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